26年度 東北スタディーツアー報告(その2)

看板の下側が壊れています。
看板の下側が壊れています。

 8月9日 午後、バスは釜石市を後にして国道45号線を南下しました。この道路は、東北地方の沿岸部を走る重要な道路です。3・11の災害時には全線にわたって津波による損傷がひどく道路の復旧状況の速度が住民の生命にかかわる状況でした。釜石市では3月5日に三陸道の一部区間が使えるようになっていました。そして、3月11日に地震が来ました。この道路の開通があったことで45号線の補完する働きをしたと言われています。

三陸道は災害直後は不通になりましたが関係機関の努力によって3月20日は何とか使えるようになったようです。

 

 バスは小雨が降り始めた45号線を一路、陸前高田駅前に向かって走ります。駅前で現地のガイドの佐々木さんと合流して市内の案内をお願いしました。本当はこの部分をコーディネートしてくださったSさんも一緒に行動するはずでしたが残念ながら都合が悪く参加できなくなってしまいました。参加者の生徒たちに災害ボランティアコーディネーター活動のことをお話ししていただこうと考えていましたが残念です。

 

 駅前でと言っても…陸前高田の駅は線路もろとも津波に流されてしまいました。現在は、代行バスが走っています。陸前高田市は三陸地域でも大きな市(中核市)でした。したがって、津波による被害も甚大なものでした。

市役所をはじめ多くの公共施設や主要産業である港湾、漁業施設、住宅も流されてしまいました。何よりも有名な高田の松原の松林が一瞬にしてたった1本の松を残して無くなってしまいました。

私たちは、海岸部にある「道の駅」跡に行きました。建物は壊滅的な被害を受けていましたが外側は何とか残っています。ここでガイドさんから陸前高田市の震災被害の全容についての話がありました。この建物は、遺構として残されるようです。写真をよく見てください。不思議です。

 

 さらに、バスは高台を目指して上がります。陸前高田市は気仙大工発祥の地でもあります。その記念館がありそこに「希望の灯り」がともされています。この灯りは19年前に阪神淡路を襲った阪神淡路大震災の記憶をとどめようと設置された灯りを分けていただいたものらしいです。雨の中でも灯りはともり続けていました。

 

 私ごとですが、2011年7月ごろから陸前高田市の気仙町上長部地区に入って津波によって破壊流失した施設の後片付けをしていました。特に、上長部地域では魚冷凍倉庫から流れ出た魚が谷間の田畑の上に入ってしまいました。強烈な臭気に襲われながら後片付けの作業はいまでもしっかりと記憶にあります。その他、高田町法量地区に入って陸に上がったボートの整理や、住宅の後片付けなどもしました。当時と比べるときれいになってきていますが何となく違和感を感じます。

 

 というのは、高台移転ということで台地が少ない市は山を崩して住宅用地の確保をせざるを得ないわけです。その土を山から土を崩して平地に下げ、土の仕分け作業を経て海岸部まで、不格好な橋脚のような足の上に土を運ぶコンベアーやパイプ等を空中に渡してあります。まるで、川崎市の沿岸部のプラント工場のパイプライン群を思い起こしました。確かに必要な工事です。まして沿岸部は大きく地盤沈下していますのでかなりの高さに盛土工事が必要になります。

でも、どうしてこの町だけがこのように早く進んでいるのでしょうか?私には、これらの土を運ぶ施設に掛かった費用を、ひも付きなしの自由に使うことができるお金で地元に渡して、緊急性の高い、重要性の順位の高いところに厚く出せるようにするほうがいいのではないかと感じました。

市内の案内をいただいた佐々木さんとは出発地の高田駅前でお別れしました。

バスは、沿岸部の奇跡の一本松の付近に駐車して短い時間でしたがフリータイムを取りました。

 

 見学後、夕やみ迫る中をバスは気仙沼市のホテルへと向かいました。座間を出発して20時間が経過しました。参加者は疲れも見せずに一生懸命災害遺構を見て自分の心の中にしまっているように感じました。

長い第一日が終わりました。生徒や学生たちは夕食後ワークショップを行って今日の見学の整理をしました。

台風11号はゆっくりと北上しているようです。明日はどうなるのかな?