26年度 東北スタディーツアー報告(その5)

南相馬の奇跡の一本松
南相馬の奇跡の一本松

 8月11日。今日は移動距離があるために早々と女川町を出発しました。

バスはは矢本石巻道路から、仙台松島道路を通って利府JCで仙台東部道路に入りました。

この場所も3・11の時には大きな被害を受けた地域です。仙台平野を走る東部道路は建設時にはこのようなところに津波が押し寄せてくるなんて誰も想像をしていなかったと思います。

しかし、この東部道路の路面が防潮堤の役目を果たしたといわれています。発災の年の6月に東松島へ支援に行った時に初めてこの道路を走り道の左右でまったく景色が変わっていたことを思い出しました。

 

 ツアーも最終日、疲れたのかバスの中は、爆睡の人が多く静かでした。

改めて、こうして当時の記憶にある景色と、車窓の景色を比べて、改めて人間の強さを感じました。

しかし、それでもなお本当は水田だったところが耕作放棄地化しているのを見ると残念でなりません。

仙台空港、亘理と通過して、山元ICで一般道の国道6号線に入り南下します。

 

 山元町も被害が大きく名産のイチゴが壊滅的な被害を受けました。現在も復興作業が続いています。

ここには、座間市の消防団の有志の方が支援作業に入り復旧作業に当たりました。山元町を過ぎると宮城県から福島県に入ります。

 新地町、相馬市を通りさらに南下しいよいよ目的地の南相馬市に入りました。

南相馬市の鹿島生涯学習センターへ到着しました。ここで現地のガイドをしてくださいます西浦さんと合流しました。この方は、当時は市の幹部職員として市民の災害対応に当たられた方です。

 南相馬市も震度は6クラスで地震での建物被害もあったようです。その後、約50分後に津波が押し寄せてきて沿岸部は大きな被害が出ました。その結果、約640名の犠牲者と、今なお行方が分からない方が111名もいるそうです。

 

 それに追い打ちをかけるように福島第一原発の事故により当初、10キロ圏避難指示、続いて20キロ圏避難指示が行われた結果、この町からも約5千名の市民が避難をはじめ最終的には6千名の市民が脱出をしました。西浦さんはその当時の話をしてくださいました。振り返って見て当時のこの周辺に市町は、災害に対しての取り組みは、ごく一般的なことしかしていなかったことから一時は大混乱をしたそうです。

改めて災害への備えをきちんとしておかないとどうにもならないことや、災害ににおける個人情報の取り扱いについて壁を壊さなければ助けたくとも助けられないということを体験し市は積極的に開示して対応にあたった。この体験を後世に活かさなければならないということを発信し続けようやく法律の変更に結びついたというようなことを話してくださいました。

 

 バスは、この春に避難解除があり市外、県外に避難していた市民も戻り始めてきているが、市民の数は大きく減少しているようです。果たして今後、どれだけの方がふるさと南相馬へ戻ってくるかが故郷の再生を左右するのではないでしょうか?

 

 私たちは、西浦さんの案内で南相馬の奇跡の一本松を見に行きました。

鹿島区南右田地区は、あの日10メートルを超す津波に襲われて風光明媚な松林は根こそぎ流されてしまったそうです。しかし、その津波に耐えてこの松だけが残りました。現在、市は保存するために取り組んでいるそうです。この場所に立って、海の方を見ると全く誰もいない世界でした。ここは原発から20キロ圏内でしたので避難を強いられました。松の木があったところから少し行ったところに何軒かの集落がありました。

あの日、ここを離れて以来誰も住まなくなった家屋でした。3年という歳月はこのような姿を刻み付けるのかと写真を撮りに行った生徒たちも言葉無く数枚を移してバスの方へ戻ってゆきました。

 

 私自身は、原発に対して一つの意見を持っています。

しかし、この場所に書くことは避けたいと思います。ただいえることは、安全神話も崩壊してしまったという現実を見せつけられて思いを深くしました。私たちの活動メンバーの中には大熊町出身の方がおります。このお盆もふるさとには変えることが出来ません。これからも帰る場所もないのです。この思いが、ささやかですが私たちが大熊町を支援させていただく思いとなっています。

 

 バスは、昼食のために市内へ移動しました。耕作を放棄したでんば田がこれほど急速に原野化するのだということを知らされました。

バスは原町区本町にある銘醸館食彩庵につきました。この建物は趣がありました。ここで昼食を食しました。この旅の最後の昼食です。自由時間を少々取った後、ガイドの西浦さんと別れて南相馬市を後にしました。

バスは、二本松ICを経由し座間市を目指して走り出しました。

 

 8月8日に座間市を出発して、今日11日まで、3年5か月が流れた時間の中の復興地の中の街々を走ってきました。ここで座間市社会福祉協議会のKさんのリードで参加者の一人ひとりからコメントをいただきました。

 

 ほとんどの方は、今回初めて復興地を訪れたわけです。やはり、一番多いコメントは、女川町の医療センターの高台から見て感じたことだったようです。はるか下の方にゆったりとうねっているあの海が、この高さまで押し寄せてきてしまったこと、それによって女川町の中心部分が一瞬にして無くなってしまったことを想像しての思いを感想として話してくれました。

 釜石市の鵜住居地区の小中生が必死になって避難したこと、そして普段の訓練の通りに年下の子供たちを守って逃げおおせたことに感動を感じた方も多かったようです。

反対に、大川小学校の印象のコメントは、同年代の子供を持つ保護者の方は「なぜ?」という感想がありました。

 昨年参加した子供たちは、1年経って夢ハウスが立派になったことや、昨年、暑い中で汗を流して開墾した場所が次の活動者の力とつながり立派な畑となっていたこと、自分の活動が目に見えたことがうれしかったという意見がありました。

 夢ハウスの八木さんの力強さ、仲間を大切に思う心は素晴らし、生き残ったばあちゃんの話には感動した。災害で生き残るか死んでしまうかはほんの少しの「運」の差だということを感じたという意見もありました。

先ほど訪問した南相馬の家の景色を見て帰れないということはこのようなことなのか、自分にはあまり力はないかもしれないけど何とか「助ける人」になりたい、各所で聞いた「忘れられるのが怖い」という言葉が心に残った、忘れないようにしたいという意見もありました。

 被災した建物や現場に立って見てTVでは感じることが出来ない思いを感じた。特に南三陸町の防災庁舎はすごかったというコメントがありました。

参加者の中には、あの時に自衛隊員として70余日現場で活動してきTさんがいました。

自分たちが片付けた町がこのように変わってきたことを感慨深く感じることが出来た。しかし、まだまだ時間がかかると思う。参加者の皆さんも、この体験を基に地元座間の防災に生かしてほしいと希望しますというコメントがありました。

 

 車中1泊、現地2泊というハードなスケジュールのツアーでしたが、ぜひこの活動の中から得た学びを友達へ、家族へ広めてもらいたいと思います。

参加された皆さんは、ほぼ確実に、首都直下地震に巻き込まれると思います。その時、自分は、家族は、お隣は、友達は…ということを考えて助け合える日常を維持できるようにしなければならないと思います。

自宅に帰られてもう一度振り返ってみてください。

 バスは、新しい道圏央道を経由して21時少し前 座間市社会福祉協議会職員の方々の出迎えを受けて帰り着きました。皆さんが事故なく帰ってこられたことが一番うれしいです。できればこの企画を来年以降も続けてゆきたいと考えています。それが「忘れないこと」だと信じています。お疲れ様でした。