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被災地支援福島県大熊町ふるさとまつへの参加と思いで話

2023年10月21日午前5時、車は座間を出発しました。メンバーは、タイ焼き隊長のYさん、助手のHさん、ボランティア活動に一生をかけているI女史、新人のSさんとさらに新人のHさん、そして、車を運転してくださるKさん、ナビゲーターのKさんの7名です。

大熊町へ入った経験のあるのは、私とLさん1だけです。

本当は、この活動の起点になった会員のKさんにも参加して欲しかったのですが、残念ながら体調に自信がないということで欠席となりました。

今年は、2022年に新大熊町役場と町の基幹施設が常磐高速道の近くにできました。その施設の近くの広場が会場となりました。

常磐道は、都内から三郷付近までは混んでいましたが、それを抜けると快適な走りが続き8時30分会場に到着しました。

会場には、イベントやさんがテントを作ってくださっていました。早速荷物をおろして開店準備。結構肌寒くでも動いているうちに潤滑油も回り快適になってきました。本部に出向き挨拶をしました。遠路お越しいただきありがとうございますとのお礼を頂きました。これこそが、私たちが申し上げている「受援力」の表れです。開会式が終わり、いよいよ開店。まだ、早いせいかさほど来客数はありませんでしたが、巡回するとほとんどが大熊町関連の団体の出店です。12年の歳月と、そのさなかの新型コロナでの活動規制が大きく響いていることを感じました。会員のIさんは、個人でも大熊町の避難者の方々の生活支援に関わっている関係で、彼女が配布した「タイ焼き引換券」を持ったお客様が見え始めました。この方々は、いわきのお祭りや、会津でのお祭りでお会いした方々でした。お元気ですか?という挨拶ができました。

焼き手のYさんは一心不乱に焼き続けています。バックヤードの4人はタイ焼きの仕込み作業、使い終わった機材の洗浄などの作業をこなしてくれます。そのうちに、Kさんはいないのか? 弟は来ていないのかというお客様が、様々な物を持ってきてくださいました。酒好きな兄弟でしたので酒の瓶が何本か来たり、イモやコメなども来ます。旧交を温める姿は、あちこちで見られました。ステージには、歌手の新沼謙治さんが登場。お嫁に来ないかの局が流れると大声援。彼も、気仙沼で被災しています。左官職人だった人が、歌手になりたい一心でオーディションに挑戦して歌手になったわけですが、すでに若い住民の方々は彼を知らないのですね。何曲か歌う中で「ヘッドライト」はジーンとしました。町民の方々はそれなりに年を重ねた方が多いのでステージ前は満員でした。やがて祭りも閉幕となりました。思っていた以上に売れたというか昔話の「ネタ」の役目を果たしたと思います。

閉幕と同時にあちこちで片付けが始まりました。町民が去ってゆきます。そのほとんどは、すでに大熊町を離れて神奈川、埼玉、茨城などに新しい生活拠点を作った方ばかりです。

確かに、周囲には防災集団住宅〈防集)が建設されています。いわきなどでは5階建ての公団住宅タイプの復興住宅ですが、ここでは戸建ての復興住宅ですが・・・どれだけの方々が住んでいるのだろうか?定かではありません。

本部に挨拶をして会場を後にしました。

 

 大熊町の支援活動を振り返ると、苦しいことばかりでした。新沼謙治の「ヘッドライト」の歌詞に重なるような活動でした。宮城、岩手の応急的な支援活動を経て、会員の一人が、大熊町に実家があった関係でこの活動に取り組み始まました。

 2011年11月に会津若松市内といわき市内に仮設住宅が建設されて、避難所生活から抜け出られたとの情報を得ました。早速、支援者の方々からの募金を使って買い揃えた、タイ焼き機材、材料を積んで会津若松市へ赴き、市内の大熊町役場に顔を出して活動の許可を受けて、市内中心部に開設された扇町仮設住宅に入りました。

 市内の空き地にずらりと建設現場の建屋のようなものが並んでいました。私たちは息を飲むような景色に驚きました。東北でも仮設住宅は見てきましたが、市町によって異なりましたが急性期に建てられた仮設はともかく、徐々に木質系の建物に移り始まていました。この雪深い会津で何年住むのかわかりませんが大丈夫なのか?と思いました。何よりも、ここにいる人々は、ふるさと大熊町には大きな屋敷を持たれている方が多いのです。それを思うとどのように接したらよいのかメンバーで相談してしまいました。

 仮設住宅には、自治会長さんが選ばれていましたので集会場でお茶を抜見ながらタイ焼きを食べて欲しいということで、無料で配布を始めました。すると、30分も経つと人が並び始めました。声をかけながら、ここでの生活の状態をお聞きしていると「おめぇここにいたのか?」というような声が聞こえてきて、握手をしたり、抱き合う姿が見られるようになったのです。仮設住宅は抽選で入居が決まります。だから隣がどこの「字」の人が来るかわからない。まして被災者という負い目を持って移住してきているので、外には出ない。だから、入居して数か月、同じ部落の人が同じ仮設で生活をしているのもわからないままだったのです。

 若いお母さんたちが、何人かでタイ焼きを受け取りに来ました。話しているうちに、参加していた女性の活動者を囲んで、いわゆる「県内差別」の話になるのです。涙を流しながら差別の体験を話してくれるのです。会津と大熊町のある浜通りとは、同じ福島といっても全く生活風習も異なります。決定的なのは車のNOプレートが異なるので、被災者だということが分わかります。あからさまに「おめぇら 今まで良い思いばかりしていて、今になって・・・」というフレーズで、のしかかるような感じで来る人がいる。学校でも差別的なことを言われたという話が出てくるのです。それを、タイ焼きを焼きながら、渡しながら、お茶を飲みながら聴き続けました。でも、これこそが心の支援、再生に向かうプロセスなのだなと感じながら活動を続けました。

 いわき市の仮設住宅ではこれほどのことはなかったです。もともと隣町という感覚だったこと、工場などの敷地内に建設されていたこともあったと思います。こうして、2012年の秋まで4か月ぐらいの間隔で通い続けました。その資金は、タイ焼きシールを使った募金活動、座間市内や遠くは千葉県千城台のようなところからのお誘いで様々なイベントに出させていただきその資金を充ててきました。材料も当時は、適当なミックス粉が無かったので、現場で牛乳や卵を入れていたので原価は高かったことが記録から見ることができます。

 驚いたのは、会津若松市の松長地区に建てられた仮設住宅に入った時でした。町役場に許可をとって道路を走って行くと運動公園がありそこに建てられた仮設住宅の入り口に掛けられていた標識でした。ここは、市内でもかなりの標高(330メート)のところにあります。浜通りに住んでいた人にはかなり厳しい寒さがあったのではないかな?と思ったのです。標高が100m上がると気温は0.6度下がるといわれています。簡単に考えると市内よりも約3度低いことになります。雨戸もないわけで、鉄板で囲われた仮設住宅って・・・・檻なのかと思ってしまいました。

その中に開設されていた集会場を使わせていただいてタイ焼きを振舞いました。気温も低かったこともあって、多くの方々に食べていただけました。

 翌年からは、秋に会津若松市、いわき市で大熊ふるさと祭が行われるようになったので2015年11月まで活動を続けました。だんだんと仮設から復興住宅や新しい場所を求めて移住して行く方が多くなり、やがて仮設住宅内に介護施設やデイサービスの施設が出てきました。

 この一連の悲劇の原因がそこにあるのかということは、国民の多くの方々は知っているのですが、政府は一向に原発については政策を変えることなく動いています。確かに稼働させた最終的に出る処理できないプルトニュウム等の放射性の物質の処分方法が決まり安全にかつ最終的に放射線物質の反応が0になる施設を準備したうえでの稼働であれば「原子力明るい未来のエネルギー」と掲げられていた看板のようになれると思います。でも現実は、TOILETのないマンションといわれる状態で、再稼働に向かっていることに深い疑問を抱えています。まだ、終わりが見えないことを忘れてはならないと思うのです。

終って、ホテルに向かう途中、火柱に見えるような日没の景色を見ることができました。