たい焼き支援活動に込めた想い
2011年3月11日14時46分に起きた地震の被害は、甚大なもので三陸沿岸部、青森県、岩手県、宮城県、福島県、千葉県の沿岸部に巨大津波が襲し寄せてきて沿岸に並んでいた、すべての物を(人、モノ、財産、景色、歴史・・・コミュニティーなど)のすべてを根こそぎ奪い取ってしまいました。
そして、宮城県女川町の東北電力原発は緊急停止、福島県相馬、双葉、いわきの地域にあった、東京電力の原子力発電施設も津波によって原子炉を冷却する非常用電源が喪失したために原子炉にメルトダウンが発生して爆発が起き、放射能を含んだ汚染物質が空中に排出され、一帯に居住することができなくなったしまい、避難計画に沿って住民の方々は「直ちに影響はない」というアナウンスの中を汚染されていない内陸地域、隣接するいわき市、関東、東北の市町へ避難することになりました。避難者は、本当に着の身着のままで何も持たずに行く先も告げられないままにバスに乗せられて避難所とされている場所へ移動させられました。想定を超える人々が移動するわけです。たどり着いた避難所は満杯となり、空いている場所を求めて福島県,茨城県・・・・などに転々と移動をさせられました。
それから各地では、避難生活が始まりました。津波で流されてしまった市町、飛行場、自衛隊機、町役場、公共施設、景観を誇り環境客でにぎわっていた町村は漁礁設備も破壊されてしまいました。
私たちは、被災された方々に何か笑顔や元気を差し上げることができないかと考えて横浜で活動をしていたS氏と子分であるHさんと岩手県大槌町吉里吉里に入ってお盆のお供え物もないだろうということで「たい焼き」を焼いて皆さんに振る舞いを始めました。(左写真)
そののちに、原発で避難した福島県大熊町の方々の支援に入ることになり、会津若松市、いわき市の仮設住宅を巡回しながら「たい焼き」を真ん中にしてコミュニテーの再生活動に取り組みました。
悲しい話もお聞きしましたが、笑顔で「また来てくれたの」と言って迎えてくださる仮設の方々とも交流できました。
その後、山田町、気仙沼、陸前高田市、南三陸町、石巻市、釜石市、女川町など各地のお祭りや、商業施設の買い物応援、石巻市石ノ森章太郎漫画館など6年間にわたって冬、秋、夏、秋と回り続けてきました。
大槌町では雇用創出事業を起こしてたい焼きのお店も出しました。
女川町では、「ウミネコハウス」のYさんと出会って新しいお菓子を作りたいということで、支援者の方にお願いして「サンマな焼き」というたい焼きの変形バージョンの商品も開発し各地のイベントで出店して活動資金を集めていました。
活動のない期間は、被災地の泥だし、冷凍魚の処分作業、草刈り、墓地の清掃、河川の清掃、真冬の在宅避難者の方の見守り活動も応援しました。
女川のウミネコハウスでは、津波によって住む場所で無くなった高白浜に畑を作るプロジェクトの計画に参加して座間の中高生も一緒になって開墾作業の最初の鍬を打ち込みました。今では名産の潮風唐辛子、イチジクの加工品などが市場に出るようになりました。
私たちは、道路啓開が済み、通行の邪魔にならない時期を経て「仮設住宅」の建設が進みだした「能登半島地震」の被災地にも「たい焼き」をお届けする準備を始めています。もう少し待っていてください。
これらの活動を支えてくださったのは、座間市民の方々でした。市内のイベントでたい焼きを買ってくださいました。また、「頑張ってね」とご寄付もいただきました。これらの資金を団体運営費とは別に管理させていただき道具類、材料、ガソリン代、宿泊費などとして使わせていただきました。
皆さんのご協力を頂いた被災地支援タイ焼きの総枚数は、3万枚をこえました。座間市のイベントでは約1万5千枚をお買い上げいただいています。
売上代金は、団体の特別会計として管理して、被災地での「タイ焼き」イベントでの活動の資金に充てさせていただいています。
その支援の範囲は、東日本大震災の被災地をはじめ、熊本地震、西日本水害被災地、阿武隈川水害被災地など多方面へ皆様方の善意の資金がたい焼きとなって届けられています。
災害国日本です。多方面で様々な災害が起きています。私たちは、この活動を続けてゆきたいと思っています。
熊本地震では、私たちの上部団体が主体となって「くまモン缶バッジ」募金を3年間にわたって続けて、約80万円の義援金を熊本県庁へお渡ししました。
三陸タイ焼き支援 最終回活動の記録です。2011年3月に発災。2011年秋の女川タイ焼きからスタートして6年間最後の活動として盛岡から、岩泉町の水害被災地を視察して、太平洋へ出ました。田老から南下して石巻までの巡業タイ焼きをしてきました。
まだまだ、傷がたくさん残っていました。一番最初に入った、岩手県吉里吉里の公民館でタイ焼きをしていた時、当時、津波で家のすべてを流されてしまった「ばっちゃん」と再会しました。お互いに顔を覚えていて思わず駆け寄って「ハグ」をしてしまいました。懐かしい思いでがたくさん残っています。
12年間を振り返ると、熊本、朝倉、倉敷、真備町、一番通い続けた「大熊町」のタイ焼き。会津若松やいわき市で見聞きした辛い、悲しい話を今も胸に詰め込んでいます。
今回の処理水の放出は、ある意味やむを得ない部分も理解できますが、もう一つ「心を寄せて」漁師さんの気持ちに立てなかったのか?確かに、海外の原発では日本の基準をはるかに上回る処理水を流しています。様々なことを言っている国でも現実は公開されていないままに原発が街中で動いているのも事実です。
でも、原発はいりません。30年間という歳月を考えた時に、この地球の水はどうなるのか? このタイ焼きプロジェクトとに関わった仲間は、どんなに粘ってみてもその現実を見ることはできません。
頑張りましたが、これだけしか応援できませんでした。まだまだ言いたいこと、書きたいことがたくさんあります。
でも、座間市の皆さんは、1枚のタイ焼きをお買い上げいただきました。ささやかだったかもしれませんが、集まれば力になりました。応援を頂き本当にありがとうございました。機会があれば、書かせていただきます。
11月の座間市ふるさとまつりにも出店させていただきます。
私たちは、地球人です。
その土台となる「この星」をあらゆる面から守らなければなりません。
地球を守る17の目標の一つにでもお役に立てればと活動をしています。
協賛していただける方々の応援をお願いします。